如月さんの指記

2月から始めた、手記ではなくて指記。スマホで書くから。

有酸素、無酸素、酵素

体型や体重を変える要因は、運動と食事しかない。そんなことはわかっている。

いや、本当にわかっているのだろうか?

わかっているのならば、なぜ私は今ダイエット中という看板を掲げざるを得ない状態になっているのか。私のわかっているが「わかっている」ではなくて「知っている」程度のことであったからだ。きちんとその全容を理解して、懸念して、生きていたのならば、今現実で問題に直面などしていない。つまりは今の今までまともに身体と向き合っていなかったのだ。よくよく考えれば、最強に痩せていた中学時代からそうだ。

私は中学になってから急激に身長が伸びた。伸びた、と言っても、男子中学生や高校生のように、目に見えて昨日と今日が違う、なんてことはなかったのだが、とにかく成長期にあたり、成長痛なるものも感じていた。そして当時、私は駅伝大会の選手に選ばれていた。陸上競技長距離走とは違い、駅伝大会は地面やフィールドではなく、アスファルトを走らなければならない。何も思考しなければ、スパイクシューズを履いて1500m走を柱違和感を感じるならば、運動靴で2400m走る方がよっぽど自由で好きだった。しかし、アスファルトを走ることは膝に大きな負担をかけた。成長痛に重ねがけするように、オスグット。半月板の裏から膝下へとまっすぐ伸びる筋肉が悲鳴を上げていた。私はアンドロイドのように酸素カプセルに入ったり、足回りに電極を巡らせたりした。挙句整体の先生からは「走るのをやめれば治る」とまで言われた。

私は「やめませんからとりあえず今できることをお願いします」と言った。これが、今思えば馬鹿なことだと思うし、尊敬すらする。

長距離走はほとんど自分との戦いだ。いつだって足を止めて仕舞えばいいし、少しくらいサボったって、体調のせいにだってできるし、とにかく考えれば考えるほど自分で自分のやる気を削いでいく。だから走り始めたら、私は考えることをほとんど辞めていた。頭の中では当時流行っていた、あるいは流行りが少し過ぎていたキマグレンの曲の一節を無限にリピートしながら走った。泣きたくて、笑いたくて、本当の自分、我慢して伝わらなくて。…。

結果、駅伝では結果をそれなりに残した。副産物的に体型が良かった。あれは、あれだけ走れば当然だったのだが、そのために削った時間は実に「金田一少年の事件簿」をほとんど読み終える長さだった。プロポーションは手に入れても、その足には何重にも巻かれたテーピングがあったのだ。

今私があの頃の体型に戻るには、あれだけの運動をするべきなのだろうか。少なくとも忙しさに甘えて10時間近く机に張り付くのは違うだろう。また私は歌えるだろうか、キマグレンを。