如月さんの指記

2月から始めた、手記ではなくて指記。スマホで書くから。

劇を観たことはありますか

劇を観て来た。

今まで映画の感想やらたわごとやらをつれづれなるままに、ひぐらし、左手親指を動かして来たのだが(私はスマホ操作が左手親指か、集中した時は左手で持って右手人差し指のため)、下北沢、新宿、中野、武蔵野、新橋、赤坂、渋谷、エトセトラ、エトセトラ…、色々なところへ足を運んで、劇を観ることも、しばしばある。

劇というものは大変とっつきにくい。特に、テレビや新聞、ラジオなどで公に、何局も何時間も告知を打たれない小劇場というものは、観るまで良し悪しの想像すらできない、H2ロケットを開発してる際の、海外からの電気回路のごとく、密封されて触っちゃいけない感すら出ている。ブラックボックスだ。しかも公演期間は、短いものであれば1日限り、小劇場の一般的なスケールでは8公演5日間。15公演10日間なんていうのは多い方になる。動員数も、リピート率も、客層も、おそらく映画のそれとは違うだろう。

私が初めて小劇場の観劇をしたのは19歳の時だった。出演者の先輩にあたる人間が私を誘って、定員30人くらいの、地下で暗くて狭くて、硬い椅子に座って、1時間半くらい観た。内容は覚えていない。30歳いかないくらいの人たちが、なんか喧嘩とかしてたような、現代劇だったような気がする。気だけなので、本当に覚えていない。寝てもいないし、記憶力が悪い方でもないのに。

私はその劇を観て、というより観に行くということをして『この世界には足を踏み入れてはいけないし、入りたくもない』と思った。おそらくハズレというものだったようだ。帰り道、愚かな子たる私は、連れて来てくれた方へ正直にその旨を伝えると、その人は「そうか。」と言って笑った。その人とはもう4〜5年会っていない。あの人は、ああいった劇に出ていたのだろうか。その人と観に行った劇は他にも2つくらいあった気がするが、どれもスケールが小さくて、面白くなかった。終演後、出演者に声を掛ける様子もなかったし、今となると本当に「付き合い」で観劇していたのだろうか。もしかして、もしかすると、私に何か伝えたいことがあったような気がしなくもない。その人は4〜5年前のその頃もガラケーだったが、今もそうだろうか。その頃にはフリック入力が板につき始めていた私には、わからない。

昨日観た劇のことは多分忘れないと思う。私があの人に連れられて観た劇には、自分から向かっていく実感がなかったのだが、そのあと何年かしてからは、自分から劇を観に行くようになったから。映画は一人で観に行くことは少ないが、劇は一人で観に行くことの方が多い。期限が限られていて、ベクトルを集中させているから、日を合わせていたら逃してしまうような気がして、人に合わせていられないのだ。

自分から観に行った劇のことは忘れたことがない。現代劇でも、時代劇でも、ミュージカルでも、コントでも。とっても良くても、しょうもなくても。もし観たことがない人に「観ないと損」だとか無理に誘う声があったら、それはマルチ商法みたいだからやめろと言いたい。どうしても気になったら行くだろうし、無理に行っても嫌な思い出にしかならないのだ。どうしても誘うなら自腹を切って差し上げろ。あの人のように。

ただ、小劇場という世界は針山の上で爪先立ちしている人が多い。「なんとなく気になっていたけれど、観に行こうと思った頃には団体がなくなっていた」なんてこともざらにある。思い立ったら吉日であるから、億行の魔物がへばりつく前に飛び込んでほしいものだ。

ちなみに、冒頭で観て来たという劇は、すごく良かった。

ポケモン、言えるかな??

ポケットモンスターの新作タイトルが発表された。ポケットモンスターソードとポケットモンスターのシールドだ。完全新作で、調べによるとイギリスを模した地方が舞台となり、新たな冒険ができるようだ。私はニンテンドースイッチを購入しておらず、レッツゴーピカチュウも遊べていないので、ハードとともに検討中だ。大丈夫、冬まで悩める。

ポケモンピンボールポケモンでパネポンポケモンボックス、果てには金銀版ポケモン図鑑を遊び果たして壊し、修理に出したところ「こんなに遊んでもらえるとは思いませんでした」という文と共に無償で新品をもらったような、過去の自分が、そんな弱腰の私を見たら後ろからドロップキックを炸裂させるだろう。しかし私はもうあの頃とは違うのだ。中学に上がってからは母の「もうゲームではしゃぐような歳じゃないよねぇ?」の言葉に屈し、ダイヤモンド、パールを買うことができなかった。そしてかなりやり込んだ金銀のリメイク版であるハートゴールドソウルシルバーも見逃し三振。ようやっと自分に素直になってブラックを購入したのだが、アニメポケモンでサトシのパーティに入っていたデントのいるジムで、相手が主人公のパートナーポケモンの弱点を突いてくるので、そのさらに弱点ポケモンをくれてやろう的なイベントで「なめんじゃねぇ!!」と半ギレして途中放棄してしまった。私とポケモンとの距離が遠くなっていく。その後いくつかのシリーズを素通りし、しかし素通りしきれず、近所に住む親戚の小学生男子が2ロム持ちだったりしたので「しかたないなぁ(大山ドラえもん声)」で1つのロムをしばらく借りて、レベル上げや図鑑集めをしたりした。オメガルビーはたのしかったね。

そうやってくっついたり離れたり、時には付き合ってもいないのにキスをしてしまうような仲の私とポケモンとの関係は、日々変化しながらも一生続いていくのだろう。ポケモンが発売されなかった世界線や、赤緑発売時に、なかはしこうようだけではなく増田順一までもがお亡くなりになる世界線であれば、ポケモンと小指だけを繋いで歩くような未来にはたどり着かなかったのに。

これは後悔ではない。ゲームフリークからポケモンカンパニー、任天堂バンダイヤマザキ、その他すべてのポケモンに関わる全てに贈る賛辞だ。そしてこれからも共にあろうという決意表明でもある。そう、それはまるで騎士が盾と剣を床について、王へ忠誠を誓うかのように。やばい、これは買ってしまうかもわからんね。

アリータ:悩ましくあること

アリータ〜バトルエンジェル〜を観た。途中、同志・同胞を煽って乱戦に発展するシーンがあったのだが、あの場面が1番好きだった。闘いの中に自分を見出す主人公のアリータが、躍動感に満ち満ちている様は、ストレス社会を生き抜く方々に是非観てほしいものだ。

そういう私はというと、年度末の急務に日々追われ、頑張っても頑張っても仕事が降ってくる。逆に今まで元請けは何をしていたんだ、と、毎年この時期になると怒り散らしながらパソコンの画面とにらめっこしている。落ち着け、私はバトルエンジェル、戦場に舞い降りた天使、この仕事を捌ききれば、きっと未来は明るいんだから。そんなバトルエンジェル・私は、自覚症状はないのだが、夜中の歯ぎしりが酷いらしい。顎がクッキングパパになる前に、仕事の全てを死留めて平穏を取り戻すか、ちょっといいマウスピースを買うかしなければならない。顎発達しすぎたらウラガンキンみたいになって、バトルエンジェルどころかバトルデーモンになっちゃうからね。当然、前者の方がいいに決まっているが、平穏が、来なかったらどうしようね?愛を取り戻せ〜〜。

話を本編の方へ戻すのだが、アリータの世界観はパンキッシュで、高く浮き上がる空中都市から落とされる廃棄物の山から、女の子の頭部部品を技師兼医師のイドが拾い上げることで物語が始まる。ガラクタの山、旧文明の遺産を漁るという表現は、数々の作品の中で見られる。例えば、スターウォーズなんかがそうだ。ああいったシーンというのは、誰しもの中にある「昔はよかった」精神から来るのだろうか。確かに今でさえ「ガラケーの時はよかった」「ファミコンの頃はよかった」などと耳にするのだから、遠い未来でもそれらは繰り返されるのだろう。

アリータの世界は26世紀。今から500年以上も先のことで、さまざまな進化や革命の後に、人々の多くがサイボーグ化している。アリータは他との差別化を図るためか、映画アバターの青い人種のように、目が大きく描かれている。彼女の脳は十代後半の健全で健康な脳、しかしその心臓は、三百年前の失われたテクノロジーであるという。途中、私は何者か、とイドに問うシーンがある。イドは300年前の、'気'の力を使って闘う戦士だと答えた。分かっちゃうのかよ、と思った。

自分が不確実な存在である物語や、あるいはそうでないものでも、自分は何者か、何のために生きるのか、自問自答や葛藤が必ずある。それはアンドロイドや宇宙人でなくて、我々のような普通に生まれて普通に育っただけの人間だって悩むことなのだから。しかしアリータはそんなにクヨクヨしていなかった。ラムちゃんもびっくりするくらい根明で、純粋で、彼氏が空中都市へ行くためなら(自分の心臓を掴み、差し出しながら)心臓を売ってもいいと言うくらいだ。これが強者の余裕か。悩みなさ過ぎだろ、と思ったが、あるいはアリータ自身が元々そういう性格なのかもしれないな、とも考え直した。最近陰鬱としたものを観過ぎていたのかもわからんね。

しかしながら、作中、彼氏がアリータのことを「こんなに人間らしい人を他に知らない」的なことを言うのだが、人を人たらしめることは、そういった悩みや苦しみがあってこそではないのだろうか、と思った。それがあるからスーパーマンやその他さまざまは、人並み外れた力を手にしても共感や感動を呼ぶのではないか。

だから、私の歯ぎしりを聴いても、どうか、人間味という一言で許していただきたい。

ダークナイト:背中を押すだけ

ダークナイトという映画をNetflixで観た。という映画、などという遠いもののような表記だが、マーベル作品の中では興行もよろしく、シリーズの中では有名なものだ。私は小心者で、ホラーに近いものを「忙しい」だの「他に気になるものがある」だの言って避けていたので、口が裂けていた彼のことも避けていた。避けるだけに。はいはい。

知らない人は少ないかもしれないが、ダークナイトバットマンvsジョーカーのバトルものだ。ジョーカー役は代々名優だと言われているが、確かにそうだと思った。ちなみにこの作品を観るきっかけとなったのは、先日アクアマンを観たからである。この折に初めて観た、というくらいなので、マーベルファンというわけでもバットマンファンというわけでもない。

とはいえバットマンとアイアンマンは好きだ。何が好きかというと、はっきりしているところが。「君の特技は何かい?」と訊きまわるインタビュアーがいれば、アベンジャーズの皆様は順番に特殊能力を挙げていくだろうが、バットマンとアイアンマンは「金持ち(rich man)」と一言で片がつく。アイアンマンに関しては「天才(genius)」かもしれないが。これも受け売りではあるのだが、バットマンは生来の金持ち、アイアンマンはいわゆる成金だ。その点を含めてもバットマンを象徴する一言は「リッチマン」に尽きる。かっけー。

金で解決している部分が十二分にあるので、使う機器の説明も最低限でスマートだ。町中の人間の携帯端末をハッキングして、ゴッサムシティを掌握する様など、倫理に抵触していることはさておき大変わかりやすい。手前で仕掛けを見せているシーンもあるので、最低限どころか猿どころか猫でも私でもわかるのかもしれないが。

映画もテレビも、ドラマが生まれている時点で人間模様が誇張され、エッジが効いて、短略化されるのだが、そもそも国民性が違う海外の作品は、欲や怒りや悲しみ、喜びが、分かりやすくて頭を使いすぎないので、息抜きのためにはとてもいい。とはいってもヒロインが死んだり友人が復讐鬼になったりする理不尽さ、不条理さ、虚無感も忘れず、全く手放しに思考の外という名の宇宙へ放たない本作品は、人気であることも頷ける。

上記の通り、この作品ではヒロインが死に、街の平和を共に守ろうと意気込んでいた「ライトナイト」と呼ばれる友を、ジョーカーの巧みな話術で狂気の男に仕立て上げ、最後は殺した。タイトルは光の騎士と闇の騎士(ダークナイト:バットマン)で街を守ろうという彼らの意思を、脆くも崩し去られるという皮肉を込めている。

一見ジョーカーの恐ろしい罠のように思われるが、どんな正義も簡単に真逆の、悪へと変わってしまう、人間の本質を突いている。きっかけは些細なことなのだ。戦争は英語でWARというが、これは誰もが自分たちが正しいと思い込んでいる、思わなければやってられないという「We are Right」からきているように、この理不尽は常に隣り合わせだと教えてくれる。

とっ散らかった話をまとめると、関連作品をさっと見やすいNetflixAmazonプライム・ビデオは、大変便利でよろしいという、それに尽きる。

アクアマン:神話か伝説か

先日アクアマンを観てきた。

最初映画館の宣伝用パネルを見かけたときは、ディズニー作品かと思っていた。横にいた映画に明るい方の説明により、アベンジャーズの系列作品中でもバットマンの横の横の横にパッと出てきて詳細のわからない存在だったアクアマンが、満を持して映画に登場したものだと知った。明らかにカラーリングがトリトン王とアリエルのそれだと思っていた。ちなみに、アリエルというのはリトルマーメイドで有名なプリンセスだが、天使の名前でもある。ギリシャ神話ではしばしば天界戦争だとか堕天だとかという言葉が出てくるが、ガブリエル、ウリエル、ミカエルなど、それぞれ意味を持っている。エルというのは光を表す。光とはこの場合神そのものを指すので、神の使いであることを名前から知らしめているのである。ウリエルだったら力の光(神道的には武神的な意味)、ガブリエルだったら言葉の光(神の代弁者)、ミカエルだったら神の光(神の代行)といったかたちだ。ちなみにこれは中二病辞典(静岡=サイレントフォレストとか載ってる辞典、ビレッジアンドヴァンガードで買った)を元にネットで仕入れた情報なので、信憑性自体は微妙である。

神々といえば、その昔パーシージャクソンとオリュンポスの神々という映画があった。半神半人という設定はアクアマンの半アトラン人半人という設定と似たところがあったのだが、個人的な軍配は確実に、アクアマンに上がる。「パーシーアホすぎん?」と映画を観た当時の私が思ってしまったからである。

なぜそんなことを思ってしまったのかというと、半分は私自身がゲーム脳、アニメ脳だからというところもあるのだが、パーシーが海の神ポセイドンの息子であるため、水を自在に操ることができるという前提があるというにも関わらず、護身用ナイフ的にペットボトル水などを携帯していなかったことがずーっと、終始、今回アクアマンを観て思い出すほど疑問だったからだ。ある程度自分が特殊な生まれや境遇にあるのならば、警戒を怠らなと言いたいのである。

パーシーとアーサー(アクアマンの主人公)の違いは、生まれた時から能力に自覚的であったか、境遇をある程度知っていたかなど挙げられるが、1番大きいのは最初から慈善活動をしていたか、別の言い方をすれば使命のために動き始めていたかである。これはストーリーの展開を早めるために有効だ。アクアマンにはそれがあって、導入がすんなり、だった。つまりパーシーは力の目覚めが遅かったわけだが、そこは問題ではない。導入部分を遅くするのであれば、そこからの伸び率で勝負すれば爽快感やスピード感を味わえ、楽しめたのではないだろうかと私は思う。その成長率も最後だけ凝縮して、途中主人公へ共感する部分が薄れてしまったことが、あの作品での魅力の薄さに影響してしまったのではないかと考えられる。

結局のところ、私が何を言いたいのかというと、アクアマンはいい映画なので是非劇場で見てもらいたいということだ。マーベルのダーク感をあまり感じさせない、割とディズニー感のある、女の子でも楽しめそうな作品だ。

ファッションは寒い

女子高生はスカートと靴下の間に何か着けているのか?と聞かれた。質問の意味がわからない。見ればわかるでしょう。着けていない。

今時の高校生のことはよくわからない。もしかしたら今期のトレンドが、ハイソックス、のように見えるタイツという場合もある。いやまあそうでなくても、昔から黒タイツを履く層は一定数いた。今も当然のように見かける。

しかしながら、女子高生の基本は制服のスカートにハイソックスだ。学校指定によってスカートの長さが膝丈、膝上○センチメートル、膝下○センチメートル、靴下の丈指定、色指定などあるが。

私の通っていた学校には、そもそも指定制服がなかった。というのも、五年制の学校であり、四年生以降が制服を着ることになれば、指定だったとしてもコスプレ感が否めず辱めを受けることになるので、多感な時期の女子にそれを強要する必要はなかったのだ。しかし先人たちは、三年生までの制服的な何かがないのも、それはそれで困ったため、こんなのもサンプル的に作りました、と、指定「じゃない」制服を用意してくれていた。

しかし、私はそれを買わなかった。その制服が膝丈だったため「ダサい」と判断したのだ。また、膝丈のスカートというのは靴下にハイソックス以外の靴下の余地が与えられず、ニーソックスを用いるとダサさが増すという懸念があった。それらの意見に、割とモダンなギャル思考な母も賛同した。私はプレイボーイやセシルマクビーで、制服っぽいスカートやブレザー、シャツを購入した。

結局その後、身長の低い先輩から指定「じゃない」制服のお古をいただいたのだが、それを受け取った理由は、先輩の身長に合わせたスカートゆえに、膝丈ではなく膝上ミニスカートになっていたから、ニーソックスを履く余地が生まれたためである。結構そのスカートというのは、先人たちが知恵を集めて考案したものだけあって、主張は少ないがダサくはないデザインであったので、三年生が終わるまで重宝した。

結局、制服が膝上15センチ以上のミニスカートである場合ならば、ニーソックスを履く猶予を与えられるということが喜ばしかった。女子高生に絶対必要だと当時考えていたのが絶対領域。それを創造するためには、スカートと靴下の間の空間は必須となる。そしてスカートというのは、その性質上、下から吹く風に無防備である。できればニーソックスを着用したい。しかしハイソックスこそ高校制服のロマンであるということも否めない。私は誰から与えられたものでもない義務感を背に、あの三年間は、黒オア紺ハイソックス×膝上スカート、寒すぎて滅びそうな日はニーソックス、というスタイルを貫いた。太ももが真っ赤になるほど冷えて痛い日もあったが、それが怪我の功名となり、1人でも多くの男子諸君に潤いを与えられていたならば幸福に思う。

いくつの会議ですか?(七つの会議)

七つの会議を観た。正直に言うと日曜劇場で充分だ。映画館で観なくていい。せっかく映画でやるならば、会議室の描写を細かく、いろんなアングルから、舐めるように動けばいいと思ってしまった。私の発想がもしかしたら貧弱なのかもしれないので、私の意見などどうでも良いでしょう。

七つの、と言うからには一つひとつの会議の重要性はバッチリ区切られて、重要そうにクローズアップされているのだろうと思ったのだが、そうでもなかった。むしろタイトルコールしていただかなければ会議の数など覚えていない。そうですか、7回会議があったのですね。一、二、三、…と各会議の前にナンバリングしてくれれば、それぞれの会議の重要性だとか、緊張感が出るのにな、と感じた。これは旧世代的な発想なのか?やってみたら安っちくなってしまうのかもしれない。

しかしながら、会社を江戸時代等の藩と例える発想はとても良かったと思う。会社のために命を張ってしまう、いかなる虚偽も働いてしまうのは、藩に忠誠を誓う武士の性質が、現代にまで染み付いて取れないようなものだという。そういえば、中学生の時に『乱』と『戦い』の違いを教わった。乱というのは歴史的、後世的には敗者が、その争いにおいては勝ちを収めることで、戦いというのは逆に、勝者が勝ちを収めるもののことを指すのだという。今更歴史のテストを受けるわけではないので、豆知識程度のものなのだが。

ともあれ、藩のためなら冷静に考えればいけないことを、仕方なしにとやってしまう日本人の性を淡々と語るシーンでは、私は真珠湾攻撃のことをふと思い浮かべてしまった。戦争にも幾らかのルールというものがあって、襲撃や戦闘はあらかじめ号令をかけて行わなければならないのに、その前触れもなしに攻撃を仕掛けてしまったということである。私はその時代に生きた人間ではないが、アメリカの高層ビルにテロリストが飛行機で突っ込んだ事件を「パールハーバー・アゲイン」と報道されたことは知っている。テロに日本が関与していなくとも、そう表記してしまうほどのショッキングな出来事だったのだろうと、想像ができてしまう。

最後の締めくくりには、世の不正は無くならないが、子どもに言い聞かせるように、何度も何度も繰り返し「ダメなことはダメ」と言い聞かせる必要があるとまとめた。会社組織よりも強い力が働くことはないかもしれないが、繰り返しの日々の中でチョン、チョン…と、サブリミナル効果的に刷り込んでいけば、もしかしたら不正行為は減っていくのかもしれない。

こう推察するに至るあたり、社会性のあるいい映画だったのかもしれない。