如月さんの指記

2月から始めた、手記ではなくて指記。スマホで書くから。

発つ鳥後を濁すな

私の語彙力は、小・中学生時代に親戚のお兄さんから1週間遅れでもらっていた週刊少年ジャンプから来る。

大体の年齢がバレてしまうので伏せるべきかもしれないが、私がジャンプを読み出したのは、多分小学三年生だった。学年は覚えていないが、読み始めた回のことだけは忘れもしない。ワンピースが連載開始した週だ。デスノートで有名な小畑先生のような、典型的な「上手な絵」ではないが、しかし鳥山明先生のように惹きつけるものがある。ワンピースの作者である尾田先生がアシスタントをやっていたという和月先生のるろうに剣心が終わった週でもある。ドラゴンボールスラムダンクが終わり、週刊少年ジャンプは暗黒時代と呼ばれる時期に突入したのだそうだが、私はあの時代で一周先、事実としては一周遅れで、今を心待ちに生きていたのだ。勝手にダメだのなんだの言って、自分たちが少年誌に追いつけない言い訳を作らないでほしい。

きっといつの時代もそうなのである。自分の知っている連載が終わったから、けじめをつけやすいし、あるいは○○編が終わったから、逃げるなら今のうちに、と、「時代が終わったのだ」とカラスのようにフンを落として飛んでいく。バカヤロウ。あのあと来たのは大海賊時代だし、木の葉の里からニンジャ・ヒーローが育ち始めるし、死神を助けるためにソウルソサエティへ潜入するし、弱気な自分を打ち破るために死んで死ぬ気でパンイチになるし、鼻くそをほじる激強ヒロインも来国する。そんなに長い連載でなくても、私の脳裏には冒険の数々が刻まれている。

残念ながら今は、私は毎週少年ジャンプを終えていない。実は一つ前の連載「逢魔ヶ刻」が好きだった私は、同様に動物やら人外の要素を持つ「僕のヒーローアカデミア」が長く続いていることにちょっとビックリしているし、連載が終わって随分時間が経つのに「ムヒョとロージーの魔法律相談事務所」がアニメ化するとかしないとか、というニュースに目を白黒させた。

残念ながら追いついていない私は、せめてこれからの時代を進んでいく人たちを邪魔しないようにしなければならない。途中から再び週刊少年ジャンプを購入するのは難しいので、せめて本屋で、懐かしくも新しい背表紙を見つけたら、海賊版撲滅を願いつつ、手に取ることが良いと思う。

ちなみにギリギリ、BLEACHNARUTOの最終回までは見届けられた。ワンピースはまだまだ続くし、知っている作者がきっとこれからも出入りし続ける。色々な事情を抱えながらも続いていく時代の中で、私たちの共通言語は「冨樫仕事しろ」だ。

歩く葦。私は人である

聲の形という映画があった。私が観たのはアニメ映画で、連れを連れ立って新宿のバルト9というところで観た。いや、ピカデリーだったか?

場所は今回問題ではない。というかこの作品自体問題ではない。けどさらに蛇足させるならば、上映の記念にいわゆる0巻的な漫画が付いていた。スピンオフとでもいうべきか。

0巻といえば、鋼の錬金術師が実写映画化した際、0巻を来場者プレゼントとしていたせいで、実写化反対勢、あるいは原作至上主義をイオナズンのごとくなぎ払って拷問にかけて命乞いに似た殺戮を行なっていたことを思い出す。テルマエ・ロマエでもない限りあの手の実写化は無理なのではないかと思ってしまった。

 

さて、今日の本題は今まで書いてきたこととは一切関係ない。今までのお話はフィクションとして葬り去ってくれてもいい。

私は歩くのが好きだ。放って置かれると三日間引きこもりを極めてスマートフォン歩数計に「16歩」と書かれている人間がそんなことを言うと胡散臭さしかないだろうが、その次の日には18,000歩歩いていることだってある。歩くのは好きなのだ。いや、歩き出したらとことん歩くタチなのだ。

世の中には、歩きながら物事を考える人間と、じっと物事を考える人間とがいると思う。これは仏教世界においてもおそらく有効な話で、ダルマさんで有名な達磨大師は岩壁に向かって9年座して、手足が退化するほど禅を解き、悟りの境地に達したというし、対して西遊記で有名な三蔵法師は、何里と続く陸のシルクロードをひたすらに歩き、カンチープラムにていくつもの経典を集め、また元の道を戻っていくという、途方のない旅の末に悟りを開いたという。

私はどちらかに優をつけて押し付けるような真似はするべきでないと思う。さらに飛躍すれば戦いの中に発明を得る人もいるだろうし、寝たきりだって論文を書く人はいる。私の場合はどっちでもあるっちゃあるのだ。今こうやってとりとめもなく文章を書いているのは、帰宅までの20分間に行われていることだし、カンチープラムだの菩提達磨だのの知識を取り入れたのはうん時間も座っていたときのことだ。どちらも大切で、取るに足らない時間なのである。

私はまだたった25年しか生きていない。猫にすれば長生きかもしれないが、象にすれば大したことない。そんな中で重要なのは、切り捨てないこと、切り捨てること、考えること、考えないこと、そういった矛盾をある程度受け入れて、何度となく捨ててしまうことなのだ、と、たった今の時点では思う。

有酸素、無酸素、酵素

体型や体重を変える要因は、運動と食事しかない。そんなことはわかっている。

いや、本当にわかっているのだろうか?

わかっているのならば、なぜ私は今ダイエット中という看板を掲げざるを得ない状態になっているのか。私のわかっているが「わかっている」ではなくて「知っている」程度のことであったからだ。きちんとその全容を理解して、懸念して、生きていたのならば、今現実で問題に直面などしていない。つまりは今の今までまともに身体と向き合っていなかったのだ。よくよく考えれば、最強に痩せていた中学時代からそうだ。

私は中学になってから急激に身長が伸びた。伸びた、と言っても、男子中学生や高校生のように、目に見えて昨日と今日が違う、なんてことはなかったのだが、とにかく成長期にあたり、成長痛なるものも感じていた。そして当時、私は駅伝大会の選手に選ばれていた。陸上競技長距離走とは違い、駅伝大会は地面やフィールドではなく、アスファルトを走らなければならない。何も思考しなければ、スパイクシューズを履いて1500m走を柱違和感を感じるならば、運動靴で2400m走る方がよっぽど自由で好きだった。しかし、アスファルトを走ることは膝に大きな負担をかけた。成長痛に重ねがけするように、オスグット。半月板の裏から膝下へとまっすぐ伸びる筋肉が悲鳴を上げていた。私はアンドロイドのように酸素カプセルに入ったり、足回りに電極を巡らせたりした。挙句整体の先生からは「走るのをやめれば治る」とまで言われた。

私は「やめませんからとりあえず今できることをお願いします」と言った。これが、今思えば馬鹿なことだと思うし、尊敬すらする。

長距離走はほとんど自分との戦いだ。いつだって足を止めて仕舞えばいいし、少しくらいサボったって、体調のせいにだってできるし、とにかく考えれば考えるほど自分で自分のやる気を削いでいく。だから走り始めたら、私は考えることをほとんど辞めていた。頭の中では当時流行っていた、あるいは流行りが少し過ぎていたキマグレンの曲の一節を無限にリピートしながら走った。泣きたくて、笑いたくて、本当の自分、我慢して伝わらなくて。…。

結果、駅伝では結果をそれなりに残した。副産物的に体型が良かった。あれは、あれだけ走れば当然だったのだが、そのために削った時間は実に「金田一少年の事件簿」をほとんど読み終える長さだった。プロポーションは手に入れても、その足には何重にも巻かれたテーピングがあったのだ。

今私があの頃の体型に戻るには、あれだけの運動をするべきなのだろうか。少なくとも忙しさに甘えて10時間近く机に張り付くのは違うだろう。また私は歌えるだろうか、キマグレンを。

君のおやつを食べたい

誕生日前夜、私に痩せろとの指令が出た。なぜ今?それはその時、ボスの目に入ったからだろう。私にとっては誕生日秒読みタイムでも、ボスにとっては誕生日でもなんでもない普通の日だ。全く関係ナッシング。やってやろうじゃねぇか。私の中で野村萬斎が卑屈な笑みを浮かべている。ちなみにまだ七つの会議は観ていない。来週見る、はずだ。

私は今身長160センチメートル程度だ。160センチというと、160センチないんじゃないかと疑う人間も現れるので、公式発表を161センチとしている。ちなみに身体測定による厳密な身長は160.7センチメートルだ。もういいだろうか。とりあえず160センチあるということだけアッピールしたいのだ。

体重というものは日々変動する。朝から夜では1〜2キログラム変動するのは当然のことだと思う。毎日取り入れて、出しているのだから。ではいつの状態を今の体重とするべきなのだろうか。1日の中で1番痩せている時か、1番太っている時か。今回、私の定義では朝起きてすぐ測った体重とする。いわゆる、1番痩せているはずの時間を「今日の体重」とするのである。

まずは160センチメートルの場合の適正体重を算出する。

適正体重(kg)=身長(m)×身長(m)×22

→1.6×1.6×22=56.32(kg)

うそやん。

ちなみに現在の体重は51キログラムなのだ。適正っていわゆる誰かが描いた理想とは違うのだな、と改めて感じた。そこで現在の体重から身長の二乗を割ってみることにした。

51÷1.6÷1.6≒19.92

なるほど、19.92。

理屈抜きに、今回は目標体重をここの係数を変えることで決定しよう。今回の目標体重に使う係数は、下記の式から決定する。

現体重の係数-(標準体重の係数と現体重の係数の差)=目標体重の係数

→19.92-(22-19.92)=17.84

小数点第2位は四捨五入し、17.8。

これにより、今回の目標体重は以下の式から算出する。

目標体重=身長(m)×身長(m)×17.8

→1.6×1.6×17.8=45.568(kg)

私の家の体重計は、残念ながら(?)小数点第1位までしか表示されない。すると45.5と結果が表示された時、小数点第2位はいくつなのかが明示されない。なので、ここは小細工できないよう、体重計に表示される体重を45.4以下とすることを目標にする。

51キロから45.4キロまでは5.6キロという差がある。1ヶ月で人間が落として良い体重は3キロまでだという。というわけで、4月2日までに45.4キログラムを実現する。ボス、しばしお待ちを。

オアシスとアインクラッド、理想郷などない

タイトルでわかる人はわかる。オアシスはレディプレイヤーワンのVR世界、アインクラッドソードアート・オンラインVR世界だ。

レディプレイヤーワンはスティーブン・スピルバーグ監督が日本のアニメやゲームへの愛を十二分に盛り込んだ映画。最終決戦に臨むシーンでオーバーウォッチというゲームの1キャラクターが駆け込んで行ったのは驚いた。あれって最近のゲームだったような?やったことはないのだが。

個人的に「ガンダムよりマクロスの方が大きいから勝てるんじゃない?20倍くらい大きいよね」と思ったが、国内外の認知度としてガンダムの方が上、と脳に声が響き、全てが完結した。理屈じゃあないんだよ、理屈じゃあ。

ほかにもたくさんのキャラクターが行き来し、壮大なスケールで描かれているので、興味のある人は観てみるといいと思う。

対してソードアート・オンラインは、いわゆるライトノベル小説発祥でアニメ、アニメ映画、各種ゲームへと活躍の場を広げるコンテンツだ。私はどちらかといえばソードアート・オンラインの方が知っている、はずである。アニメ映画に至っては公開の1年前にチケット予約をし、1人で観に行った。一期アニメのみを取り上げれば、電脳世界に囚われた人々が、現実世界に帰るため奮闘する物語である。

 

申し遅れたがこの記事は、どちらかといえばレディプレイヤーワンを観ていない人向けだと思う。なぜならば、私がレディプレイヤーワンをつい最近見たばかりだからである。

レディプレイヤーワンもソードアート・オンラインも、VRゲームであるということは変わりない。しかし、VRの中でもその定義は異なる。

レディプレイヤーワンは、バーチャルリアリティの世界に没入する際、その身体を実際に動かすことでプレイヤーを操作する。つまり歩くならば歩行動作をしなければならないし、振り向くならば首を動かす。対してソードアート・オンラインは、ヘッドマウント型デバイスを装着し、起動コードを口にすると、脳の運動信号が身体に送信されないよう遮断され、ゲーム世界で歩いていても現実世界での身体は寝たままだ。

どちらがいいとは一概に言えない。それぞれ一長一短ではあると思う。レディプレイヤーワンの世界は、現在プレイステーションVRで一部実現されつつある。手を動かすリズムゲームやロボットアームを操作するゲーム、ゾンビを倒すガンシューティングゲームなど様々ある。その長所は運動が出来ること。短所は側から見たら明らかに怪しいこと、俯瞰すれば明らかに恥ずかしいことだ。

私は新宿にあるVR-ZONEというところに遊びに行ったことがある。そこでプレイステーションVRのゲームを体験した。対面する女の子のアバターの顔や手元を見ることはもちろん、ミニスカートの隙間を覗き込む行為までできてしまう。最初は作り込んでるなー、すごい、とあちこち見回したりしていたものの、ふと対面しているバーチャル女子のバーチャルパンティを覗いている体制で、このゲームの体験を順番待ちしている、リアルおっさんやリアル女子の存在を思い出してしまった。なんてこった。思い出したくなかった。リアルが私に襲いかかってくる。普及してしまえばどうということのないことなのかもしれないが、ワイヤレスイヤホンで歩きながら通話している人すら未だに不審な目で追ってしまう私には、自室で引きこもって誰からも干渉されない状態でなければやりたくないと思ってしまった。これって意外に敷居が高い。そしてレディプレイヤーワンの世界では、ゲーム世界でも実世界でも敵に狙われる。しんどいよ。オアシスどころかディストピアじゃないかと思ってしまった。

対してソードアート・オンラインは横たわっているだけなので、そうそう怪しさを感じさせない。頭に変なもん着けている時点で十分怪しいじゃないか、というならばぐうの音も出ないが、その点だけ覚えてさえいれば、無意識中に変な動作を見られることはない。バーチャルパンティを覗いているの図、とか。

短所があるならば、アニメ一期の設定のような状況だ。ヘッドマウント型デバイスを装着し、開発側がハッキング。ゲーム内からログアウトできなくし、ゲーム内で死亡すれば脳をレンチンされて死。外部からデバイスを無理に外そうとすると、脳の信号が二度と身体に届かなくなり死。本気のデスゲームと化した上に、食事が取れなくなり、ゲーム参加者全員が実世界では病棟にて管理される植物状態となってしまうことだ。あるいは、ゲームに没入しすぎて食事や睡眠、運動をまともに取らなくなり、場合によっては餓死するものも出るという。

ソードアート・オンラインのアニメ二期以降とレディプレイヤーワンは、操作性こそ違うもののよく似ている。現実世界に生きない人がいること、リアルしか現実でないこと。どうしても数値化できない情報がリアルにはまだあり、いつかバーチャルと遜色なくなってしまっても、生きていることで繋がるものがある。絆と呼んだり、精神的に、と言ったりしていた。結局現実からは逃げられないのだ。ゲームの中にいたとしても。

ドローンのように、普及してから法整備が必要になる場合も起きるかもしれない。しかしまず、ゲームということの前に、人と人とが関わることを覚えておく必要がある。ゲーム内だろうと会社内だろうと、辛さも楽しさも変わらないだろうね。理想郷などないよ、作らなければ。

豆を食べるか投げるか

私は2月生まれで、幼稚園の頃の写真を見ると「2がつうまれのおともだち」という文字とともに、鬼のお面をつけた幼少の自分とほか何名かが、ピースサインを真顔で投げている写真が残っている。

豆自体は嫌いではないのだが、節分が2月3日、誕生日が2月2日のため、ほんの1日の差で一個多く豆を口に含むことになる。それこそ、何も考えずに言われるがままピースサインを作っていた幼少期には、一個多く食べられるお得感を噛み締めていたけれども、中学に入った頃には「もう1日か2日遅ければ、一個少なくて済んだのに」と思うようになっていた。豆自体がそこまで好きではないのだろう。

大人になると、節分の豆はどのような決まりで数を食べるのだろうか。

例えば、

① 一の位と十の位の数を足した量。24歳の人ならば2+4=6個。60歳の人ならば6+0=6個。

あるいは、

② 十の位の数+10+一の位の数。24歳の人ならば2+10+4=16個。60歳の人ならば6+10+0=16個。

こんなくだらない計算式を書いていると、結局豆の味や食感をどのように感じているかで勝手に計算式を変えていくのではないかと思う。言ってしまえば、豆が好きかどうか。たくさん食べたければ歳の数だけ食べればいいし、そこまでは食べられないなら②式を用いればいいし、もっと少なくしたいのならば①式を用いれば良い。さらに嫌いな人は多い数から少ない数を引けばいいだろう。積み重ねていく歳を引き算するとは何事かとも思うのだけれども。

私は節分豆を忌み嫌うほどに思い遣ってもいないのだが、ピーナッツアレルギーをもっているてまえ、豆類で肌よりも薄い色のものにはやや警戒してしまう。なんか出たらどうしよう。顔とか口の中とか。みたいな。

願わくば①式くらいで済ませてもらえればと思っている。後期高齢者になるつもりもあまりないので、最高15個くらいで済ませられればと。

ちなみに私の実家では、福は内、と投げた家の中の豆を、回収しながら歳の数だけ食べるという謎の文化があった。取り損ねて隙間に入り込み、一年以上経った豆が発掘されることもしばしばあったため、中学2年生くらいの時から、豆が12個くらい入った小袋を各部屋にそっと置くようになっていた。

これをチラとでも目にした方は、どのような節分を過ごしているだろうか、とある地方では、鬼を外に祓わないという文化もあるらしい。付いている霊をすべてお祓いしたら、守護霊まで居なくなってしまって次の日に交通事故死した人の話を聞いたことがある私からすれば、間違っていないことだと思う。

2月4日には旧正月として、晴れてさえいれば陽の光を一身に浴びるといいらしい。忘れていなければ、試してみたいものだ。