如月さんの指記

2月から始めた、手記ではなくて指記。スマホで書くから。

歩く葦。私は人である

聲の形という映画があった。私が観たのはアニメ映画で、連れを連れ立って新宿のバルト9というところで観た。いや、ピカデリーだったか?

場所は今回問題ではない。というかこの作品自体問題ではない。けどさらに蛇足させるならば、上映の記念にいわゆる0巻的な漫画が付いていた。スピンオフとでもいうべきか。

0巻といえば、鋼の錬金術師が実写映画化した際、0巻を来場者プレゼントとしていたせいで、実写化反対勢、あるいは原作至上主義をイオナズンのごとくなぎ払って拷問にかけて命乞いに似た殺戮を行なっていたことを思い出す。テルマエ・ロマエでもない限りあの手の実写化は無理なのではないかと思ってしまった。

 

さて、今日の本題は今まで書いてきたこととは一切関係ない。今までのお話はフィクションとして葬り去ってくれてもいい。

私は歩くのが好きだ。放って置かれると三日間引きこもりを極めてスマートフォン歩数計に「16歩」と書かれている人間がそんなことを言うと胡散臭さしかないだろうが、その次の日には18,000歩歩いていることだってある。歩くのは好きなのだ。いや、歩き出したらとことん歩くタチなのだ。

世の中には、歩きながら物事を考える人間と、じっと物事を考える人間とがいると思う。これは仏教世界においてもおそらく有効な話で、ダルマさんで有名な達磨大師は岩壁に向かって9年座して、手足が退化するほど禅を解き、悟りの境地に達したというし、対して西遊記で有名な三蔵法師は、何里と続く陸のシルクロードをひたすらに歩き、カンチープラムにていくつもの経典を集め、また元の道を戻っていくという、途方のない旅の末に悟りを開いたという。

私はどちらかに優をつけて押し付けるような真似はするべきでないと思う。さらに飛躍すれば戦いの中に発明を得る人もいるだろうし、寝たきりだって論文を書く人はいる。私の場合はどっちでもあるっちゃあるのだ。今こうやってとりとめもなく文章を書いているのは、帰宅までの20分間に行われていることだし、カンチープラムだの菩提達磨だのの知識を取り入れたのはうん時間も座っていたときのことだ。どちらも大切で、取るに足らない時間なのである。

私はまだたった25年しか生きていない。猫にすれば長生きかもしれないが、象にすれば大したことない。そんな中で重要なのは、切り捨てないこと、切り捨てること、考えること、考えないこと、そういった矛盾をある程度受け入れて、何度となく捨ててしまうことなのだ、と、たった今の時点では思う。